10/03/2009

私的心と体の天気図 -その報告2




この2,3日、私もとうとう、どこかが壊れてしまってきているらしい、という体験をしています。
らしい、という小さい感覚的なものにしか今は云えないのですけれど。
それは本当に数回なのですけれど、このところ幻聴が起きています。
空気の流れか何かの都合なのかもしれませんが、誰かが離れたところで話している言葉がふと、あたかも私の後ろ、又は真横で話しているかのように聞こえてくるのです。長い話と言うのではなくて、大抵は一言だけです。

先日は私が棚の整理をしている勤務先での事。向こう遠くで買い物をしているらしい女性の声が「これは、きれいに見えるわね」と後ろに聞こえたので、「ありがとうございます」と後ろを振り返ると誰もいなくて苦笑したのでした。
その同日、プリンターのインクが切れていたので勤務から帰宅時に文房具店に寄りプリンターインクを購入して出口のドアの外に出て、盗難防止の為に二重ドアになっているその外ドアを出ると同時に優しい女性の小声で「それらを買ったのですか」と耳に聞こえ、ふと目をあげて周りを見ても誰もいません。
で、帰宅すると、あっ、しまった。間違えたインクカートリッジでした。
孫の宿題の書類をプリントしておいてあげると約束していたので、慌てて折り返しその文房具店に戻り、正しいカートリッジに変換してもらいました。
ひょっとしてあの声は「それ、間違った品じゃないかしら」と言いたかったのかなと後で又もや苦笑の私でした。
又、或る日は「元気なんでしょうね」と言う男性の声がして、知らず知らず自分で『何か私の知らない事でも知ってるのかしら、貴方は』なんて声に出して返答したりして、、。オッと、危ない危ない、とうとう私も見えぬものを相手に会話をはじめたか、と妙な気分です。
これ等の声は今のところ英語のみなのですが、昨日の夜はPCで少しばかり勤務先の書類の書き直しをしている私の後ろに我が家の老猫が来て「みゃ~」と云う声に、「あら、起きてきたのね。ハイハイ、今新しい食べものをあげますよ~。」と椅子から立ち上がって後ろを向くと、当の猫がおりません。アレッ、どこへいったのかしらん、と名前を呼びながら餌の用意を仕上げてからあちらこちらを探したのですが、出てきません。
と、居間のソファの上で乱雑に置いてある人形やら造花やらの中で丸くなってまだ爆睡中の猫がおりました。
なんだ、私の空耳だったのか。
ところが今朝も息子が勤務から帰宅すると猫を部屋に連れて行って何やら遊び相手をしていた時も、私がPCでメールを書いていると、「みゅ~~」とウチの猫独特の鳴き声が足元でしたので「あら、もうお遊びはすんだの。なに、何か食べたいの?」と目をPCから離してその声の方を見やるのですが、そこに猫はいません。そこで、息子の部屋の前に立って、「猫はこちらにまた戻ったの?」と声を張り上げると中から息子が「いや、ずっとここで寝てるよ」と言います。
これらの現象はどうなのでしょうね。私の周りに人がいない時に起こるので、これは確かに私の脳波に問題があるのやもしれませんからその物音が現実的なものかどうかの立証はまるで無いわけで、私の音波の採り間違えというか、聞き間違えが起こってのことなのか、まるで現実性のないものなのかというものは私にも検討がつきかねます。
それに、最近は残聴というのも多くて、PCのサイトから音楽を取り出して楽しんだりした後は、まるで違うサイトに移ってからも同じ音楽がスクリーンを通して聞こえたり、側にある冷蔵庫のモーター騒音に混じって聞こえ出したり、はたまた皿洗い機の運行に合い待ったりしてバックグランドニュージックの様に聞こえてきます。
これ等の残聴は脳波が他の音を取り違えて、前に聴いた音内部でリピートしてその時聞こえている音にかぶせているのではないかと、私は勝手に思っています。
私は精神的にちょっと危ない状態なのでしょうかね。

でも、これ等の声が聞こえると、精神的にはとても落ち着いて、決して不安や恐怖心のようなものはまるで感じられませんから、なにが聞こえても、平気ですし、むしろまたこの現象が起きてくれるのを心待ちさえしているのです。
ただ、これを読んだ方、どなたかが、「いやー、気味の悪い女性ですね、貴女という人は」と思われる方がおられるやもしれませんね。
でもですね、今現在の私は、到って普通、平常人間でありますので、ご安心ください。まァ、この先の事は保証できませんが、それはそれで、また後日、ぼちぼちとある事や、あらぬ事も、その度にお知らせする事にしましょうね。

9/13/2009

いざ、いざ

N姉さんにはご機嫌宜しく今日までお世話頂きましたが、アッシはカカアの賃金で家徳を賄うのは男一匹が廃るというもの、隣町にアッシの弟子が助っ人を待ち望んでいて、そこの猟場ではアッシが身内のT兄さんのこの猟場よりも活躍して行けそうに思いますんで、そちらに行かせて貰います。
どうか、アッシの後釜のC女親分を宜しくお引き立ていただき、この場の繁栄が更なるものとなさって下さいまし。
アッシ独りの身ですと、これからもN姉さんと一緒にこの場を栄え、行く行くはT兄さんからこの場を貰い受けると聞かされていたのが、大親分交代にあたってはそうも行かなくなったのが事情でござんす。
アッシの働きが多かったのが、さして認められなくなり、内情を知るT兄さんはアッシに対するN姉さんの働きを少し妬んでいたのも事実でござんした。
N姉さんからの思い入れもあって、アッシは家族を何より大事に思い、餓鬼3人を一生懸命に育てる事にも専念の意を表したのが、アッシの仕事に手抜かりが多くなったと勘違いしたのやもしれませんが、N姉さんの仰るとおり家族あってのアッシであると思いながら今日まできたのが、裏目に出たのでござんしょうか。

「可愛い弟子達、そして皆々様、ご機嫌宜しゅう。また隣町で合う事もあろうかと思いやすが、その時まで達者にお暮らしなせェ。これまでで、あばよ。」
と、吾が親分は別れの途に就いたのであった。
残された弟子達は泣く者あり、場を離れる者あり、ふてくされる者あり、陰で新親分を落とす戦略を腑に持つ者あり、後を追う者あり、後ろを向いて涙拭く者あり、嬉々として新親分におべっかを使う者ありと、それは様々なのであります。
この私めにしましては、今のところはじっとして廻りの様子を伺っているのでございます。
人生には色々な事が起きて当たり前なのでございましょうから。
自分の身丈に合った暮らしをいつもの時も心せねばいけませぬ。
背伸びや暴走は決してしてはならぬ禁じ事と戒めて、しかし努力は惜しむ事無く、回りと相まって無理からなる日々を暮しましょうぞ。これからも。いざ、いざ。

ってな具合なんですね、もし時代劇で表現したとしたらの最近の私の勤務先ドラッグストアの支店長交代劇であります。
N姉さんとは無論、この私の事であります。自分を当店の活躍の中心に見立てた図々しいやつと皆様はお考えかと思いますが、Well,そうでも思って毎日を暮らしていないと、雀の涙ほどの賃金でのこの年での労力が慰められないのであります。まあ、お許しあれ。
新支店長は指しての引継ぎがなされている訳では無く、それがこの大チェーン店Wの特徴でもあるのですが、各支店長は会社基本販売支持にしたがっていれば特有のあり方でその販売力を上げれば好成績店として認められる訳で、そこは各支店長の力に寄るのです。
L支店長が私に耳打ちをしたのです。
「この地帯は兄Tの配下になったので、私はここの長には成れなかった。私は兄の下で働く訳にはいかないんだ。隣の地帯には数人の長が選ばれるらしいから、そちらの方が自分には良い機会をもたらしてくれると思う。」
そうですよね。
ちなみにL支店長のワイフは当店大地区の薬局部の主任部長で、先月には南アメリカ地区に薬局部員薬局研修講師として講演に出かけたりする優れた職員です。
賢明な年上女性に憧れて結婚して最強の家庭を築く事を誓ったL支店長、今は自分の立場がいまいちスッキリこないのは、彼自身が誇り高く、活動的な人間であり、そして彼独自の人生期に於いては仕事をこなすには一番良好時期である事を承知しているからなのでしょう。
今の時期どのようなチャンスを逃す訳にはいきません。

私にとっては当店で、3人目の支店長のC女史。
さて、これからの私の勤務状態、生活サイクルにどのような変化が訪れるのでしょうか。
ちょっぴり不安もあり、刺激もあり、楽しみでもあり、今の私の心境は複雑なのです。
還暦を過ぎた私の年令で、若いボス達と色々な経験をもっていける事は私にとってはとても善い事に違いはありません。
人生は一生勉強です。人生に完全完璧なんて在り得ない、ただそれから眼を逸らさずに、向っていくのみと自分にいつも言い聞かせる私の今日の日々なのです。
いざ、いざであります。

9/06/2009

今日をありがとう -メラニーという職場仲間

当年22才のメラニーが私の勤務先ドラッグストアへ市政活動の一環として週一で出勤して来るようになってもう一年以上になります。
小学校は公教育特別クラスを卒業後、市の生活教育保護協会を通して今に至り、このドラッグストアが全国的に身体障害者協力プログラムの社会生活一環雇用者を採る企画から彼女が選ばれて当店に雇用者として迎えられたのでした。
私は最近までダウン症の彼女が中国2世アメリカ人であるのを知りませんでした。
両親が共に中国人で、家庭では中国語で会話をしているので彼女はそれを使い分けるのが上手です。
彼女を受け入れるに当たり、初めは古参のアメリカ人女性の下に就いたのは、会社が彼女がアジア系人間であり、学校と同じ感覚で、普通の英会話を難なく聞き取れるようにとの配慮だったかもしれません。
しかし、私達ドラッグストアに勤務の者が特別に身障者受け入れのトレーニングがなされているわけではなく、「普通の雇用者の取り扱いでお願いします」と言われたところで、そうはいかないのが当たり前のなりゆきでしょう。
彼女の出勤には必ず市の生活教育保護員が付き添うので、この保護員が彼女と一体となって社会生活教育に携わるとの契約が、その保護員が変わる度に、彼女の労力や意気込みや全ての精神面、体力面で変化が多いと私は感じており、しかも、受け入れ側の社員にしても、自分の仕事のノルマを抱えており、彼女を我々同様の仕事をさせるのは無理な事であるために、つい彼女への「教える」という立場がおざなりになってしまっていたのだと、彼女の出勤日が来るたびに私は感じ取っておりました。

彼女は記憶力や学習力には高い評価を見せたのですけれど、その精神力や体力にはかなりの限界があるように私には見えたのは事実です。
22才のこの彼女が時折5才児のように駄々をコネ、仕事を放棄し、何かに不満があるとイライラしても言葉にその不満を言い表せないもどかしい気持ちが彼女を更にを怒らせ、憤懣やるかた無い表情が現れ出したのは、ドラッグストアの誰もが忙しく自分達の仕事と、私生活にいっぱいで、彼女に特別に注目する事も無く慣れの状態になった頃だったように思います。
週一の勤務も彼女の出勤が当たり前になって特別に注目する事柄でもなく、慣れと言う形で彼女の存在はある意味に無視されつつあり、それに彼女自身が皆といまいち職場仲間という輪から浮き上がっており、しかもその存在が忘れ去られつつあると彼女は感じていたのに違いないのです。

或る日、その古参社員がヴァケーションに入ったと同時に私の所に彼女の勤務パートナー役が廻ってきました。
私は支店長に彼女の経歴を尋ね、彼女の受け入れが安易なものでは人間独り、一個人に対してあまりにも軽率な安請け合いにならないよう、そのプログラムの趣旨と合いまるように、勉強させて欲しいと率直な気持ちを話し、家でそれらの資料本などを読み漁ったのです。
彼女が私に発した台一声は「貴女は私の友達ですか。Are you my friend?」でした。
私は一瞬その言葉の意味を考え、彼女が私と職場での繋がりを求めているものと思い、とっさに応えたのでした。「そうですとも。私達はお互いが大事な仕事の仲間です。」
彼女は周りから個人として認めてもらいたいという様子がその態度の何処にも現われていて、その為には気持ちを一斉に導入するけれど、誰もが「あ、そう」的おざなりな態度を見せると落胆し、体も心も動きを止めてしまいストライキ状態に入るのが解るので、私は今回同席の教育保護員のコーチと相談の上、彼女の精神衛生を一番に取り上げて、それが体力アップにも繋がるよう協力してもらう事にしたのでした。
コーチの話によると、彼女は周一の出勤がとても楽しみなのだそうだ。
今現在は私は自分の立場や他社員達のしがらみも含め、職場における自分の立場を確立しつつある彼女の勤務は自由に選ばせているのですが、それでも「この仕事をヘルプしたい」と私の所に必ずやって来る彼女です。
そして、出勤一日の終わりに彼女は必ず私に「今日をありがとう。また来週」と挨拶し、私も「こちらこそ、今日をありがとう。また来週」と応えるのです。
こうして、私たちは職場仲間として一緒にどこまで行けるのか、今の私には皆目検討がつきませんが、少なくとも少しは彼女が一個人として社会に受け入れられていると感じて生きている事に彼女の将来が明るいものとなっていって欲しいと考える私です。

8/15/2009

秋茄子の夢


一富士、二鷹、三茄子といって日本の初夢福呼び定番でありますね。
富士山は兎に角、日本人の誇り、やはり日本の一番のラッキーナンバーに数えられるのは当たり前だし、鷹は力強く空を悠々自分のものとして飛ぶから地上を這い回る我々、人間には憧れの長物として例えられるのは解るとして、この3の茄子にいたっては色々な説があって、一番それらしいのは外は黒くても中は白く(♪ボロは着てても、心は錦~~♫のアレでありますね)種が沢山隠れていて、人間には子沢山のイメージがあるから、おめでたいのであります。
それで、『秋茄子は嫁に食わせるな』との諺にも、日本独特の意味があって、嫁姑のイビリ合戦に例えられたり、又は優しい家族のいたわりで、子種が少ない旬の茄子は縁起が悪いとか、小ぶりで美味しい旬の秋茄子を食べ過ぎると、体が冷えて(茄子は利尿作用もありますしね)子供が出来難くなったりの不都合が起きるのではないかとの節介心、老婆心もあっての事なのでしょう。

その嫁姑の人間関係にはな~んにも関わっていない‐一人息子は十数年も前に離婚しており、未だに独身を決め込んでいて、3人の孫は私が母親係ですからして‐この私が、その旬の秋茄子を頂く機会などあろうはずが無いのに、私のメインブログで盆栽の話や夏の盆踊りの思い出やら、そしてTV特別番組ドキュメンタリーHiroshima等々、日本を想う機会が多かったせいなのだろう、秋茄子をこのフロリダで頂く機会を得た、半分実際的に於き得る、半分は何だか腑に落ちぬといった夢を見たのが印象的で、この夢を分析してみる事にした私です。

夢の話‐フロリダ州タンパ市にある『盆栽普及研究会-フロリダ植木盆栽大学』の一団から後援会として招待を受けました。
実際の盆栽大学の創始者はアメリカ人なのが、夢の中では何故か創始者、講師やアシスタントの全員が日本人か日本人二世らしき農業関係者達で、農作業の合間にお昼を頂く感覚で、農作業服のままの姿で一応の挨拶をされ、それから農園で今朝取れたという数々の美味しそうな野菜料理が食卓に並べられ、しかもそのテーブルは日本では定番のような丸い木のちゃぶ台に、木目と塗りの長方形のテーブルが2台ほどに沢山の大皿に盛られたご飯のおかず的存在の、そして私の長年の憧れのような郷土料理のようなものが並べられ、割烹着姿のオバちゃんが更に黄色の薄い衣をつけた小ぶりで、それは美味しそうな、今揚げたての茄子の天ぷらの大皿を持ってきてテーブルに並べて「旬の秋茄子、ここのも美味しいですよ。試してくださいな。」とおっしゃる。
私はこちらでは、漬物にも出来る、あの小ぶりの茄子を目にした事はないので、大いにそれが気になり、さぞかし美味しいだろうと目がそれに釘付けとなったところで、農園の皆さんは日本のユカタを着たら、それはもっと日本へ行ったような気分でより料理をを楽しめるだろうとの心配りらしく、私にユカタを渡して着替えるようにとおっしゃる。
心は早くも飛んでいてその料理の数々を、特に旬の秋茄子天ぷらを早く食したいと焦ってはいたのですが、せっかくのご好意なので、ユカタに着替え、言われるとおりに食卓に正座して‐現在の私の体型からは、正座はちょっと無理がありそうなのだが‐いざ、茄子を箸に取り、側にある天ツユに、というか、それは醤油のようなのだが、やはりそこは日本とこちらとの違いがあるとして、憧れの旬の秋茄子を付けて、今や口に運ぼうとした、その瞬間、そのツユが2、3摘ポタリ、ポタリとそのお借りして着ているユカタの左膝に滴り落ちたのです。
ヤヤっと、口に運ぼうとしたその茄子の天ぷらを一旦、分け小皿に戻し、そのユカタのシミを何とかしなければと考えている目も前で、湿気の多いフロリダ気候のせいも在っての事なのか、はたまた私の着慣れぬユカタへの緊張と料理への期待と興奮とが汗となって吹き出ていたものか、どちらにせよ、そのシミは繊維にぼわっと広がってしまい、右ひざアタリから左衣の全体が茶色に、、、。
慌てふためく私を見た、そのおばちゃんは、大丈夫よ、とばかりに私に目配せしてから、何とシャワーのようなホースでユカタを着たままの私にシャーッと水を何回も掛けてくれて、そのシミはユカタの模様と見間違う程に薄れたのをみると嬉しそうに私にぬれぼそってしまったユカタを脱いで、自分の洋服に着替えるようにとおっしゃる。
そうですか、では失礼してと自分の洋服に着替える私の後ろで、水浸しになってしまった、それまで味わうのを楽しみにしていた、それらの料理は一応一切が台所の方にかたずけられてしまったのだ。嗚呼。
『食べたかったな、あの美味しそうな茄子の天ぷら、、』残念仕切りの私であった。
すると、どこからか私の今はもう他界して数年にもなってしまったはずの両親が私の側に現われて、父が言う。「いやァ、ここの茄子は見かけは良いけれど、実際にはまずいらしいよ。食べなくて正解だった」
母も言う。「味が無いんだって聞いたよ。だから、いいじゃないの。」
ね、と両親が私を慰めてくれている。
『ふ~ん、そうなのか。味が薄いのか。でも、おいしそうだったんだけどなァ。しかし、確か、部屋の入り口においてある盆栽は松らしいけれど、一枝だけは妙に長くて、アンバランスだった。これがフロリダ式盆栽ねェ、私には解せないけど。と、思ったのと同じに、あの美味しそうな茄子も実はやはり、日本のとは違うものだったのかもしれない』と、私はまるで葡萄を食べ損ねたキツネが『あの葡萄は酸っぱいものだったに違いない』と言い訳をして自分の心と頭のバランスを取ろうとしたイソップ物語のようだ。
夢の中では、その茄子が黄色い衣の中から黒紫の皮が見て取れ、着たユカタには薄水色の淡い柄がついていて、盆栽までもが鮮やか緑、農園の人達はグレーの作業着に青っぽい野球帽、オバさんの真っ白エプロン、など総天然カラー版の夢であり、今にも波しぶきと伴って三角白枠に”東映”と映画会社のロゴが出てきそうだった。しかも茄子を食べるのを諦めさせようと、両親の説得まである、オマケつきの半ドキュメンタリー。
しかしですね、何をかいわんや、私の父は長年、茄子にはアレルギー体質でして、幼少の頃、ご近所の畑で出来た茄子をおすそ分けしてもらった時のみ、母がそれを漬物にして、稀に食卓にのせる事はあったけれど、それ以外での茄子の料理が我が家で食されることは決して在りえなかったので、茄子が嫌いというわけでもなかった私に対しては、『茄子を食べると声が悪くなる』などと楽好きの我が家では、あたかもそれらしく語りつがれていたので、遊びに行った先の親類宅で、私が味噌汁に入っている茄子のかけらを見つけて「学校の合唱団に入ったから、茄子は食べない方が良いかもしれない」と言ったのが皆の失笑をかったのが思い出される。

朝目覚めて、直ぐに思ったのは、「やはりあの茄子、いかにも美味しそうだったけれど、こちらの土で育った事からも、見掛けよりは味薄で無味だったのかもしれないなァ」なんて、すっかり自分を納得させてしまっていたのは、例えあの時茄子を口にいれていたとしても、夢の中では味と云う点での感触記憶が現実とは大幅に差異があって然りだから、その自身への落胆振りを少なくしようとしたものか、両親までもを夢に登場させて、私の食い意地を戒めての事だったのかもしれない。
日本への恋情つのる、在米40年をも過ぎた私の頭脳は、夢の中で英語と日本語が入り乱り、登場人物も、そしてその文化もが、何やら、私独特の夢文化思考をもたらせている今日この頃なのであり、これはもしかして、自分の体調が自分の耳に『その夢の中の料理が、昔感じた以上に美味しいと思う時は、実は夢から出て、あちら側で、美味を上満悦する立場になってしまったているに違いない』と気が付く日がそう遠く無いのではないかと、何かが私に囁いているのかしらと勘ぐってみたりもするのである。
あの夢の中で旬の秋茄子を食さなかったのは、正解だったのだろうか。
アチラの世界で頂く茄子のお味はいかに美味であるのか否かを、皆様にその時には報告できないのが、ちょっと残念にも思える生きていてこそ美味しい秋茄子のお話でした。

8/07/2009

円子の「こんなもんかい」物語 その15


その(15)保志加円子の1つの終わり

ベランダの椅子に向かい合った二人に朝日が高くから明るい光を投げかけ、木々や芝生に新しい息を吹きかけているような爽やかさが広がっている。
拓哉は続ける。
「会長は円子さんのお母さん、可憐さんの叔父様にあたりますので、本来の意味に於いては貴女のの大叔父に当たる方です。」
正しくは、円子の祖父の弟が戦死したのを期を同じくして病死した弟嫁の意を継いで、満を祖父が自分の子としてひきとったのだという。
満は年の離れた義妹の可憐を可愛がっていたのだが、可憐が高校入学も間もないの頃、田舎道を通学中にその田舎にたむろしていた不良達に乱暴を働かれてしまい、それに大いに憤りを感じた満がその独りの少年に攻撃を掛けて怪我をさせてしまい、満はそれを期に円子の祖父母の家を出て、円子の祖母方の親類を頼って県外へ移り住む事となったのであった。
その乱暴を受けた可憐が身重になったのだ。廻りの皆が可憐を哀れに思い、そしてやがてその子が生まれた時、一番に彼女の心配をしていた満であり、その子がどの様な事情であれ、皆から祝福を受けてこの世に生まれ出たのだと思うようにとの願いを込めて祖父はその子を「円子」と命名したのであった。
円子、それは満も哀れであると思う気持ちを断ち切る為もあり、満の上に丸い人生を築く意味の「円満であれ」という思いの名であったのだ。
その様に選んだ名ゆえ、その名の事で、円子が将来に於いて災いを受けるなどとは考えにも及ばなかった祖父母であり、円子が名前の事でからかわれると、いつも「これは、本当に良い名前なのだよ」と皆が言うだけで、円子には多くの事情を語ることなく、その祖父も命名の意図を円子に知らせる事無く、この世を去ってしまったのであった。

満は何時の時も円子の成長を陰から応援していたつもりでもあった。
ところが、或る日から満が会社経営に奔放している合間に、親子共々、満の前から姿を消してしまうという事件が起きたのだ。
保志加円子が満と同じ血液型であるという単純な理由と、更に円子の誕生前の或る時期を境に満が円子の実母の住居を追われた事とが、円子を満の子であるに違いないとの誤解を生み出して坂下輝美に報告されたのであった。
それこそが、保志加可憐、円子親子が第一の殺傷沙汰に巻き込まれるという事件を生み出す要因となったのであった。
輝美の弁護士という男性が円子を坂下家養子縁組の交渉にの話をもちかけた、それが為にその弁護士が左目を損じるということになったあの日の事件である。
そしてそれよりももっと円子の母親と祖父母に打撃を増したのは、あの日の事件以来、彼等、円子家族が円子を母親から取り上げようとしていると張本人は満に違いないと勘違いした事でもあったのだ。
それは円子家族は坂下家の事情を知らなかった事と、坂下満となって一躍実業家として名を世に知らしめる事となった満が保志加の家を出て、円子誕生に於ける時期の彼が起こした傷害事件と、その過去のスキャンダルを何らかの力で封じようとしているのではないかと考えたのだった。
無論、それは事実無根の考えであったのだが、円子の祖父は自分の弟夫婦の信頼を裏切って満を他県へ追いやってしまったという無念さもあって、満が保志加の人間に好意をもってはいなくても仕方が無いと思っていたのだ。
しかし、実際はそうではなかった。
実のところ、祖父母の所に毎月見舞金と称して多額の金額が預金振込みがあるのは、あの忌まわしい可憐に起きた事件の示談金だと信じていたのだが、それは満が密かに行っていた善行であるのに、保志加の誰もが気がついてはいなかったのだった。

拓哉は満の全てを母親からの話で理解しており、そして満を母親と自分の生活を支えてくれた大きな支えとして心からの尊念を持っており、成人してからは坂下満の秘書として満の良きアドバイザーとなったのである。
「社主、いえ、拓哉さん。私が見たあの女の子。あれは私自身ですね。あの幼い頃の事件が独り暮らしを始めた私の生活の中にフラッシュバックとなって、よみがえってきていたのですね。でも、それが何故、私の記憶喪失とオーバーラップしたのでしょう。」と円子は頭に浮かんだままの質問をした。
「実は、あの日、円子さんの様子を調べて、その上で会長に報告したら、ゆっくりと会長の意思を円子さんに伝えておきたいと、そう思ったのですよ。」
満の妻輝美が円子の存在を誤解したまま病死し、その遺書に坂下家の家徳一切の権利を保志加円子のものとする意の遺書が作られていたのだ。
そして、それは坂下満として個人名以外の、坂下財団関連全ての資産を動かせなくなる満を含め、拓哉とその母親ばかりか、今後の会社経営やその関連会社に属する多くの家族に不都合が起きるものであった。
坂下満は円子が坂下の資産を継ぐことには賛成であったが、それが妻輝美直下の一団が円子を盾に他財団と合併吸収されるのを恐れた。
坂下家直下の者達はそれを全ての関連会社を含めて、坂下満の名を無しには運営が不可となる事を恐れ、誰もが坂下満が、この先の会社運営や他もろもろの財産贈与をどのように考え、誰が坂下財閥の事実上の後継者となるものなのかと、皆が満とその養女円子の動きに注目していたのであったのだ。

そうだ、あの日私は自分の幼い頃の私自身を見たという確信にショックでめまいを覚え、サエに支えられて部屋に戻ったのだった。
円子はその日に思考の焦点をあわせようと目を閉じた。
そこへ、男性が現われて円子の様態に驚き「如何しました。円子さん、大丈夫ですか!」と顔を出した。
ふと、見上げた円子の顔の前に男の顔があり、、側にいた小さな女の子、血がその目からしたたり落ちている昔の幼い自分自身がそこにいた。
そしてその子-幼少時代の私自身が咄嗟に側にあった鋭い刃物を私に手渡してくれたのだ、、そして、私は夢中で彼を切りつけ、いや、刺したのだと思う、、。あァ、あれは私の自分の心の中に潜んでいた幼かった私自身が、とった行動だったのですね。
私自身が私を恐ろしい何かから私を守ろうとして、、私が母親を守りたいと思ったその時の私のように、あの時の私自身が私を守ろうとした、、、。
そして、私はあの幼い頃と同じように、その恐ろしい記憶を心の奥にまた仕舞い込んでしまった、、。

拓哉はただ優しい目を円子に向けてうなずいただけであった。
そして、私はそのまま記憶を失ってしまった。あの時のように。
でも今度はあの時と違って、その時の記憶ばかりか自分の人生のそのものをも忘れてしまっていた、、。
入院を御世話下さったのは、やはり拓哉さんでしたか。
あァ、そして、私の母はついに私が坂下満に捕らわれの身となったと勘違いして、私を助け出そうと病院に現われたのですね。私の名を狂ったように呼び続けていました。それで、私は自分の名を思い出した。
今、母はどうしていますか。そして、坂下さんをずっとお見かけしていないのですけれど、彼は私の母と話が出来たのでしょうか。
二人と会って、話がしたいです。
でも、私は保志加円子です。坂下満氏の子ではありません。それに坂下家とは養女縁組を取り交わしてはおりません。
これで、私は坂下の家とは何の繋がりが無いのは皆さんにもお解かり頂けた事と思います。
ですから、この家に居る理由はもう、ありません。もう、ありません、、。

円子が話の一息を付く頃、側に立って事の成り行きを見守っていたものか、お世話役の栄子さんが涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、庭のアチラを指差し泣き声で云った。
「あら、猫ちゃんですよ。また遊びに来ましたよ、今日も飛び跳ねるんでしょうね、円子さま、ご覧下さい。」
本当だ。楽しそうだ。この間私を助けてくれたのと同じ猫ちゃん。
自由に飛び跳ねるといいわ。いつでもこの庭が気に入ったら、飛び跳ねに寄せてもらうといい。
私も、そうします。自分で自分の跳ね方をしっかり身につけよう。
何度も同じ跳ね方じゃ、駄目なんだよね。その時、その時を自分で判断をして、過去に留まってちゃ次の楽しみが逃げてしまう、ね、猫ちゃん。
この時の円子が猫を見るその瞳の奥には虹色に輝いていたかもしれない。
もうこれからは、黒い血を目の中に見ることはないだろう。
「私の人生とは、こんなもんかな。」円子の言葉に応えて「こんなもんだね」と言ったのは、円子自身であって、それはもう幼い頃のあの少女のものではなかった。



8/03/2009

人生のバランス-マイルズ・ディヴィスス(21才)の葬儀の向こうに

ご家族のご意向により下記の画面クリックする事でマイルズ君のメモリアルサービスにご一緒に参加くださいますよう。

Myles Davis Memorial Service from Cooper City Church of God on Vimeo.


彼が若くして、この世を去った事を嘆き下さいますな。私の大事な、最愛の息子は多くの人々を愛し、そして愛され、かくも大勢の人々の心の中に、このように若くして触れることが出来たのを、神はその力、あっぱれと誉め讃えて、ご自分の側にお呼びになったのです。私は固くそう信じております。彼の母親、そして彼の妹も思いは同じです。』
フロリダ州クーパーシティ・神の教会の牧師を務める、彼の父は穏やかな声でその教会講道館に、外までも溢れる数の葬儀参列者に向い、言いました。
そうなのかもしれない。
入室した私の目がオープン棺の彼の付属陸軍オーケストラ部の制服に身を包み、制帽を胸に横たわる、若きマイルズ・ディヴィスの白い顔を捉えた時、滝のような涙が勝手気ままに放出し、家族の一員とし参列するわが孫娘の姿が哀れで、思わず嗚咽を抑える事が出来ないでおりました。
マイルズ君は付属陸軍オーケストラのトランペット奏者としている他、地元高校吹奏マーチングバンドのコーチをしたり、又、ジャズバンドでブルーズ作曲を手掛けて多他の地元開催会場でもコンサートを受け持ったりしていました。
彼は幼少6才頃から演奏を初め、その音楽に対するタレントは数々の賞をもって讃えられ、それは孫娘の音楽に関してはタレント性は丸でないものの、他の競技で大いに活躍して賞を受けるという彼とはそのタレント性ではバランスの取れたカップルといえると思うのです。
今最愛の人を亡くした孫娘、クリスティーナは心広い彼のご家族の元を訪れ、そこに寝泊りをして彼の今までの人生を感じ取る事で、今の現時点に自分の焦点を合わせ、そしてそこから将来を見て進むという人生のバランスを見つけ出そうとしています。
そして、私達個々もそれぞれの中に喪ったものをこの先のバランスをとるべく行動に気持ちの整理と配慮をしようと試みているのです。

私自身について言えば、こうして思いや回顧論を記す事で、そしてクリスティーナを今までどおりに見守る事で、平常生活を何気なく、しかもある事、ある事を一つ一つ受け入れかたずけて終日を無事に暮らす事で、私の人生に於けるバランスをとって生きているのです。ただ、ただ、当たり前に、そして平凡にあるがまま、その日の一日を迎え、送ることで私の人生をそうもズレること無く廻りと自分のバランスをとりながら、、、。
何かが、どちらかに大きく傾き、私の不均等が回り全ての不均等に繋がっているわけですから尚の事、心と体のバランスも崩さないよう心してこの先暮らしていけたら幸いとは思いながらも、自分には計り知れない不均等条件がいつ目前に現れるかも解らないのが、人生というものです。
であるからこそ、安易に人生をあなどるなかれと賢志達は私達に教えを給うのでしょうが、いかせん、凡人の私は、その突発災難時にはそんな教えも頭には浮かばず、その時を慌てふためき、嘆き哀しみ、自分と周りをバランスを崩してしまうのです。
凡人である私は、その凡人であるが為に廻りから色々と学びながら、この先もずっと私の一生を終えるその時までを、人生に於けるバランスを取りながら生きていく使命なのだと心しながら暮らすのが私という一個人なのだとこの場に於いても改めて感じたのでした。

マイルズ君、今の私の人生のバランスの教えをもたらせてくれた事に感謝します。
いつか向こうでお会いする日まで、さようなら。

8/02/2009

お役目ありがとう


心がつぶれるとは今の私達の孫娘、彼女の状態をいうのかもしれない。
哀しみの重さでつぶれた心はひび割れて、その修復は如何したらよい物かと廻りはオタオタとするばかりで、実際のところは何も出来ないで、その哀しみに暮れる姿を見ているしかない。
最愛の恋人と死という形で別れなければならないこの状態を、どの様な世のルールと教訓とを以て、彼女に納得せよとしようものか、私にはそのすべを知らない。
18才間近のこの夏は、彼女にとっては悪魔が来たりて、彼女の目前から彼を奪い去ってしまったとしか言えなかったのだ。
が、その彼のご家族が神の場所としての教会で神の愛を教え伝える人達であった事が、その暖かい心に救われて、今はその一人子の息子が神の思し召しを真っ先に受けたのだと知る事で、彼女の心は少しずつ癒えていっているようなのが、私には何よりもの救いなのだ。
悪魔に連れ去られたのではなく、神が彼の善業を讃え、そしてたった21才という若さで彼を神のホーン奏者としてその腕を高く表し、迎え入れたのだと彼の両親、そして祖父母、親族一同がそう信じているという。
無宗教者の私達にはその理解にかなりの辛い物を感じてはいるものの、愛に満ち溢れるこのご家族が、彼女を娘同様に迎え入れてくれている事が、私達が彼女に与えられない何か、その欠けた一部を満たしてくれているのであると感謝する気持ちこそあれ、何ら不都合や迷惑を感じている訳ではないのだ。
交際中は一夜とて彼等がどちらかの家に寝泊りするなどという事が全く無かった二人であったが、彼亡き後の一週間程を彼のベッドで寝起きする彼女が、今は哀れと思う私なのである。
彼のご両親は言ったという。「貴女の気が済むまで彼とお話なさい。そして彼が今、心安らかに貴女を見守っているという事を感じたら、将来に向って明るく先を進むのですよ。過去の思い出に縛られる事なく、自分の幸せに向って、哀れみや哀しみが貴女の将来の道を曇らせる事がないよう。貴女の幸せを願って彼が空からラッパを吹いてガイドしてくれるに違いありませんから。それが私達の息子なのです。愛とは過去に留まる事ではありませんよ。愛は今、現在、その時、その時をどうやって将来に繋げていくかと云う事だと思います。」
もし、この言葉を私が彼女に言ったとしたら、彼女の思いはまるで違う受け止めをしただろう。
自分達の最愛の息子を喪った、そのご両親の言葉だからこそ、彼女の心の痛みはそのご両親の痛みと同化して、それを超えた大きな広い心と愛情に包まれたに違いないと私は確信したのだ。
「家族皆が私を愛し、心配してくれているのは充分に解っているのに、何故か家にいると、独りぽっちになった気がしてとても哀しいの。なのに、学友達と一緒だったり、彼のご家族と一緒にいてまるで日常生活での無駄話をしているとしても、心が少し楽になるようで、哀しみが薄れていくような気がする。」
新学期が始まるのは3週間先だ。その時までは、好きにして、自分の心の整理が出来る事を願っている私達である。
私と夫が彼女の誕生から今までを親代わりとして暮らしてきたから尚の事。
この世ではご縁が短かったマイルズ君、しかし貴方のあちらでのご活躍を貴方のご家族、そして私達の孫娘の将来を通して知る事となる事でしょう。
私がこの世を去る時が来ても、大丈夫、その時は彼のラッパ音色が高々鳴り渡るのがこの私にも解り、そして私は微笑んで天に昇って往くのだろうと、孫娘はその時、慌て哀しむ事無く、事を迎え得る事ができるはずだと、思うのです。
その事に於いても彼女の亡き恋人のマイルズ君、貴方の大事なお役目に心からありがとうと言わせてください。どうぞ、その時には宜しくお願い致しますね、と私は心で彼に手を合わせたのである。